2009年06月25日

1938年にドイツによって併合

1938年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によりオーストリア全土が分割占領された。
これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の4か国により分割占領された。
ただし、ドイツとは異なり、ナチスによる併合により消滅していた中央政府が復活し、第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955年のオーストリア国家条約により主権を回復した。[31]
ドイツへの併合に協力し、その後オーストリア・ナチス党の指導者になった。[32]アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれ死刑になった。
冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて第2次大戦以前にドイツに併合され、(選挙でそれを望んだのはオーストリア国民だが)多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担したことに対する戦争責任について問い直す動きが見られた。

1942年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の勢力下に置かれようとしていた。その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974年にキプロスでのクーデターが失敗し、その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には北大西洋条約機構に加盟した。

領土の喪失
第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由市となった。
その後、1954年にトリエステ自由市の半分以上を占めるイストリア半島をユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア ――この時にリエカ(フィウメ)を獲得――)に割譲し、トリエステ市を含む北西部がイタリアに復帰した。
エーゲ海東部のドデカネーズ諸島をギリシアに割譲した。
参戦前の1939年に宣言したアルバニア併合が無効とされ、アルバニアの独立が完全に回復された。
戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ[33]、ソマリランド[34]等のアフリカ植民地を放棄し、これらの地域はイギリスの委任統治領になった。

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共和制移行
コミンテルンの活動と、ファシズム独裁への揺り返しから共産主義的な雰囲気が支配していた1946年に行われた共和制移行を問う国民選挙によって、その政権奪取よりファシスト党とそれを率いるムッソリーニに対し友好的な態度を取り続けていたウンベルト2世は廃位され、国外追放となり、サヴォイア家のイタリア王国は終焉を迎え共和制に移行した。
なお、新たに制定された憲法で、元国王であるウンベルト2世およびその直系男子のイタリア再入国を禁止する条項が制定された。この条項が破棄され、「元王族」となったサヴォイア家のメンバーがイタリアに再び入国できるようになるまでには50年以上の年月がかかった。
大戦中にソビエト連邦からの侵略(冬戦争)に対抗するため、ナチス・ドイツの協力を仰いだ事で敗戦国扱いを受け、侵略者ソ連から戦争犯罪に問われる事になった。しかし、ドイツの支援はフィンランドにとってはやむを得ない選択であった。何の落ち度も無かったにも関わらず、1939年から1940年にかけてのソ連の不当な攻撃が”敵の敵は味方”と言う感情にフィンランドを貶めたといえる。不運だったのは1941年6月からの継続戦争において、フィンランドに味方する近隣諸国はいなかった事。スウェーデンを除き北欧はナチスの旗の下にあった。スウェーデンは中立を守りきったがフィンランドにはそれが不可能であった。それでもフィンランドは自己の生存権のため、ドイツのレニングラード包囲戦には深く加わらず、ドイツの敗戦時には、連合国に寝返り、国内からナチスの勢力を追い払った。ソ連は勝利国として、フィンランドに対し、制裁と戦争法廷による戦争犯罪の追求を行ったが、フィンランド人にとっては、不当な制裁であり、ソ連と戦ったマンネルヘイム将軍らは国家の英雄とたたえられている。しかしソ連は戦後も勝利国としてフィンランドへの干渉を強めて行く事となる。

2009年06月10日

権力分立制は、国家権力の集中によって

権力分立制は、国家権力の集中によって生じる権力の濫用を防止し、国民の自由を確保することを目的とする制度である。

権力分立制は、古典的には、立法・行政・司法の各権力を分離・独立させて異なる機関に担当せしめ互いに他を抑制し均衡を保つ制度 といわれ、自由主義的・消極的・懐疑的・政治的中立性という特質を持つ。

ただし、近代においては、ある程度の変容を伴うのが一般的であり、ある程度の変容を伴ったものも、近代的権力分立制として認められる。

日本国憲法では、国会の内閣に対する統制強化 と 司法権の強化 という特徴を持つ。

国会の内閣に対する統制とは、具体的には議院内閣制や国会の最高機関性 であり、国民主権主義と行政権肥大に伴う行政の権限濫用の危険増大に対応したものといえる。

司法権の強化とは、具体的には行政事件についての裁判権や違憲立法審査権 であり、法の支配の原理に基づくものといえる。


国民主権主義(民主主義)
民主主義は、平たく「民衆による政治」ともいわれ、この理念をもとにした政治形態は民主制(民主主義制、民主政)と呼ばれる。

民主主義を具体化したものとして、日本国憲法では、国民主権主義(前文 1段1文 §1)が採られる。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

「主権」とは、国家の統治のあり方を最終的に決定し得る力である。

そして、国民主権の意味については、国家権力の正当性の根拠が全国民に存すること(代表民主制が原則)のみならず、国民自身が主権の究極の行使者であること(直接民主制が原則)も意味する とする折衷説が通説である。

そして、国民主権の内容としては、以下のものが挙げられる。

人権
参政権
選定・罷免権 15条 44条 (国会議員 44条 地方公共団体の長 93条2項 国民審査 79項)
国家意思の形成に直接参与する権利(国民投票 96項 地方特別法 95項)
参政権を補完する諸権利 (表現の自由 21条 知る権利 21条 集会・結社の自由 21条 請願権 16条)
統治

選挙制度
議院内閣制 66条3項 69条
地方自治制
国民票決制 96条 95条
国政公開の原則 57条2項 91条
国会の最高機関性
政党制
国民代表の解釈

2009年06月06日

てあぶり(手炙り・手焙り)は手炉(しゅろ)ともいい

てあぶり(手炙り・手焙り)は手炉(しゅろ)ともいい、比較的に小形の火鉢でおもに手を炙って暖めることに使われた。通常、手焙りは対で作られていた。現在では手あぶり火鉢と呼称されることが多い。
ほや(火舎・火屋)古くは、炭櫃と同様に方形の脚の付いた火鉢や「てあぶり」や香炉をさした。現在は火鉢という意味でも使われるが、香炉をさす場合が多い。その他には燃焼式のランプのガラスの蓋い(被い)や煙草盆や香炉の火入れの蓋を意味する。
炭櫃(すびつ)は角火鉢のことで、方形で脚が付いている物や備え付けの大きな火鉢を指した。一説には炉や囲炉裏の意ともいわれる。
火桶(ひおけ)は木製の火鉢のこと。本来は桶という意味から円形の形状であったが、平安時代には方形のものも木製であれば火桶と呼称していた事例もある。外側には漆塗りを施し、時には蒔絵で装飾され、内側には金属板の被覆が施された火鉢のこと。
火櫃(ひびつ)は木製の角火鉢のこと。炭櫃で火桶である物ともいえる。

方形
長火鉢(ながひばち)
角火鉢(かくひばち)
六角火鉢(ろっかくひばち)
円形
丸火鉢(まるひばち)
丸胴火鉢(まるどうひばち)
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火鉢がいつ頃から使用されていたのかははっきりしないが、現存し最古の火鉢とされるのは「大理石製三脚付火舎」といい、正倉院収蔵されているが、一説には、火鉢と香炉を兼ねたものといわれる。清少納言の枕草子に、火鉢の前身にあたる円形の火桶(ひおけ)と方形の炭櫃(すびつ)に関する記述が見られ、武家の暖房器具としてはじまり、公家も利用するようになったが、大きな炭櫃だけを使用した。とあることから、平安時代には使用されていたと考えられる。

炭を使用するため、薪を使う囲炉裏に比べ煙が出ないことから、武家や公家の間で使用されていたものが、江戸時代から明治時代にかけて、町人や庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された金属製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。

戦前までは駅の待合室などでよく見られたが、ストーブに押され、消えていった。

現在、江戸時代から発達した絢爛豪華な火鉢は、装飾植木鉢、プランターカバーとしての需要があり、また凡庸な火鉢もリサイクル用途として、庭先などで中に水を張り金魚などの大型の金魚鉢として、使われることも多い。

平成に入って、テレビの骨董鑑定番組の影響から急激に需要が増えたが、投機目的や、インテリアとして求められる例が多く、暖房器具としての需要は低かった。しかし昨今、遠赤外線による暖房の効果がいわれるようになり、エアコン暖房を苦手とする人に支持されている。

2009年04月23日

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

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なお「天皇位をめぐる戦乱」であるため、戦前は旧制高等学校以上に進学しないとこの乱については教育されなかった。

660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。

12月3日(672年1月10日)、近江宮において天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

乱の原因
壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

天智天皇は即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。また、国内の政治改革も急進的に行われた。しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。

また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の1つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。さらに大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、前述した天智改革への不満の醸成が壬申の乱の下地を作り天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。

また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している

2009年04月19日

19世紀のラテンアメリカ

独立後の諸国では、どの国でもクリオージョが伝統的なカトリック教会に依拠する保守派と、自由主義に依拠する自由派に分かれて政権を争ったが、自由派の勝利や保守派の自由化により、最終的にはどの国でも自由主義的な政策が採られ、イギリス資本と結びついた大地主のクリオージョ寡頭支配層が、政治・経済の権益を独占した。また、その農業や鉱業などの一次産品はイギリスをはじめとする欧米諸国の需要に左右されつづけ、大西洋経済の構造そのものにはあまり変化がなかった。すなわち、ほぼ全てのラテンアメリカ諸国においてクリオージョ寡頭支配層の利益にならない工業化はそもそも目標にすらならず、現地の経済のバランスを無視して世界市場と直接結ばれたコーヒーや砂糖などを単一耕作するプランテーションや鉱山からなる従属経済が、植民地時代からさらに深化した。イギリスは独立後の諸国に借款を与え、鉄道を建設することによって、各国の港を通してラテンアメリカ諸国の産品の生産地を国内市場からかけ離れた世界市場へと直接結ぶ経済構造を築いたのである[8]。さらに、三国同盟戦争によって破壊される前のパラグアイのような例外を除き、独立後のラテンアメリカでは、独立以前に存在したマニュファクチュアは、クリオージョ寡頭支配層とイギリスによる自由貿易の導入によってイギリスの安価な製品との自由競争に敗れて悉く破壊されたため、国内資本による工業の自立的な成長は起こらなかった[9][10]。また、植民地時代に存在したインディオの共有地は、自由主義的な私有財産権の権利の下に19世紀を通して解体され、アラウカニア征服作戦や砂漠の開拓作戦によって植民地時代にはヨーロッパ人の支配を受けなかったパタゴニアがチリとアルゼンチンによって征服された。これらの土地は各国の大地主によって分配され、その後のラテンアメリカ諸国の農業を特徴づけることになる、安価な労働力のみによって採算を担う、粗放で生産性の低い土地利用を旨とした大土地所有制が確立した。こうして19世紀初頭から続いたイギリスによるラテンアメリカ経済の支配は政治の安定した1870年代頃から20世紀までに確立し、南アメリカ諸国はイギリスを中心とする従属的周辺国となった。地理的にイギリスの支配が及ばなかったメキシコや中央アメリカではアメリカ合衆国の資本が同様のことを行い、中央アメリカでは「バナナ共和国」と呼ばれるほどの従属経済化が進んだ国家が複数出現した。

シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

ラテンアメリカでは、キューバとブラジルを除いては基本的に1850年代までに奴隷制は廃止されたが、1870年代頃からチャールズ・ダーウィンの進化論やオーギュスト・コント、ハーバート・スペンサーらの実証主義の影響によって生まれた白色人種を優等人種とする人種決定論により、独立後のクリオージョ寡頭支配層は、各国にヨーロッパからの白人移民の誘致を懸命に行った[11]。こうして移民の大量導入が成功した国(アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル)では、開発の大きな原動力となったが、反面人種決定論により各国の黒人やインディオ、メスティーソ、ムラートといった有色人種の国民への差別的な対応が制度化されることになり、教育によってヨーロッパの言語やヨーロッパ伝来の科学教育が施されると同時に、非白人固有の文化の大規模な弾圧が行われた[12] 。このような政策により、独立戦争での活躍によりクリオージョ寡頭支配層への参入がなされたメスティーソやムラートの軍人の一部を除き、インディオやメスティーソをはじめとする多くの民衆は基本的に植民地時代よりも貧窮が進んだ[13]。また、上述のようにラテンアメリカのクリオージョ支配層は政治・経済的にはイギリスに従属したが、文化的にはフランスのブルジョワ文化に憧れ、多くのエリート階層の子弟のフランス留学が進んだ。各国の支配層は19世紀後半には首都をパリ風に改造することに心を砕き、特に経済発展の著しかったアルゼンチンのブエノスアイレスでは「南米のパリ」と呼ばれるようになるほどの都市計画が進んだ。

このように、確かにラテンアメリカ諸国は政治的独立を果たしたものの、実際に独立戦争で植民地支配と戦った貧しい民衆にとっては支配者の交替に過ぎず、民衆の困窮はさらに深まった。この問題の解決は20世紀から21世紀に持ち越され、20世紀のラテンアメリカでは従属と低開発を克服する方法が模索された

2009年04月04日

荒岩亀之助

荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年2月29日 - 1920年9月3日)は、鳥取県西伯郡大山町出身の大相撲力士。最高位は大関。本名は山崎徳三郎。現役時代の体格は170cm、108kg。

林業従事者の二男として生まれ、家業を手伝ううちに腕力と強靱な足腰が備わったといわれる。当初は大坂相撲の陣幕部屋(現在の年寄名跡は北陣に変更)に入門して「真竜」の四股名で取っていたが、ある時風呂で兄弟子の背中を流していたところ「流し方が悪い」と殴られたのに腹を立てて大坂相撲を脱退、上京して元大関大戸平の尾車に入門、明治27年(1894年)1月場所に三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。

もともとの資質に猛稽古で磨きをかけ、入門からわずか2年後の明治29年(1896年)5月場所に十両に昇進、このとき四股名を「荒岩」と改めた。十両は1場所で通過し明治30年(1897年)1月場所で入幕した。いきなり横綱小錦を破って7勝1敗1分の好成績を挙げると翌場所も小錦を撃破、3場所目の明治31年(1898年)1月場所小結、翌5月場所関脇と瞬く間に昇進を重ね、以後前頭筆頭に落ちた2場所を挟み7年半にわたって三役に座り続けた。当時は優勝額掲額制度の導入前だが、幕内最高優勝に相当する成績を、入幕2場所目から明治34年(1901年)5月場所までの4年8場所間に4回記録している。にもかかわらず大関に昇進できなかったのは2代梅ヶ谷、大砲と2大関が上位に在ったこともあるが、当時は小さい力士は大関にふさわしくないという考えが根強かったことが荒岩に不利に働いたとされている。

大関昇進は明治38年(1905年)5月場所、國見山と同時昇進だった。小結から1階級飛び越しての昇進だが、明治37年(1904年)1月場所で梅ヶ谷、常陸山が横綱に昇進、大関空位(梅ヶ谷、常陸山が横綱大関となる)となって4場所目のことだった。新大関の場所で9勝無敗(当時幕内力士は千秋楽(10日目)に出場せず)、5度目の優勝相当成績を挙げたが以後は持病のリウマチが悪化したため衰え、明治42年(1909年)1月場所を最後に引退した。引退後は年寄・8代花籠を襲名、大正9年(1920年)の死去まで門弟の育成に努めたほか、検査役を務めた。

小兵ながら腕力、足腰が強く、機敏で激しい千変万化の取り口だった。突っ張りよし、ハズ押しよし、出足引き足は自由自在、技も多彩で特に蹴手繰りは絶品だったといわれる。男前で風格があり、仕切り姿は天下一品とされた。優勝相当5回という成績、幕内成績も8割を越えていて、「梅・常陸」時代の一方の雄・常陸山とは対戦成績2勝4敗[1]。常陸山から2勝以上した力士には他に梅ヶ谷・太刀山・鳳らの横綱[2]が並ぶことからも、荒岩の力量が推し量れる。そのうち1勝は1904年1月場所6日目に記録したものだが、常陸山はこれ以前に1902年1月場所9日目梅ヶ谷に敗れてから27連勝しており、しかもその後1907年5月場所6日目に太刀山に敗れるまで32連勝を記録しているため、もし荒岩がいなかったら60連勝が達成されていたかもしれない。

前述したような事情があり横綱になれなかった悲運はあるが、間違いなく明治後期の東京相撲を代表する実力者の一人である。同時期の関脇逆鉾と共に名人ぶりを謳われ、その強さは「摩利支天の再来」と讃えられた。大坂相撲で活躍していた國岩(のち東京に出て小結両國)と「東西の両岩」ともいわれた。なお、鳥取県出身の大関は、その後1967年(昭和42年)の琴櫻(のち53代横綱)まで現れず、2008年(平成20年)現在も荒岩・琴櫻の2人のみである。また「荒岩」の四股名を名乗ったのは昭和の若ノ海(1957年1月場所から7場所間「荒岩」を名乗る)まで5人確認できるが、若ノ海以外の4人全てが鳥取県出身である。(例外として、1970年ころ、アメリカ出身で花籠部屋にいた幕下力士が「荒岩」を名乗っていたが、十両に昇進できずに廃業し、帰国してしまった)

主な成績 [編集]
幕内在位:25場所
幕内成績:120勝29敗10分3預88休 勝率.805
優勝相当成績:5回(1897年5月場所、1889年5月場所、1900年5月場所、1901年5月場所、1905年5月場所)
金星:3個(小錦2、常陸山1)

ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

2009年03月20日

あけぼの (列車)

あけぼのとは東日本旅客鉄道(JR東日本)が上野駅?青森駅間を東北本線・高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線を経由して運転する寝台特急列車。

上野?青森間を1日1往復、約13時間かけて運行し、2002年(平成14年)12月1日より東京?東北間唯一の定期夜行列車である。


停車駅 [編集]
( )は、上り列車のみ停車。<>は、運転停車。

上野駅 - 大宮駅 - 高崎駅 - <水上駅> - <長岡駅> - (新津駅) - (新発田駅) - 村上駅 - あつみ温泉駅 - 鶴岡駅 - 余目駅 - 酒田駅 - 遊佐駅 - 象潟駅 - 仁賀保駅 - 羽後本荘駅 - 秋田駅 - 八郎潟駅 - 森岳駅 - 東能代駅 - 二ツ井駅 - 鷹ノ巣駅 - 大館駅 - 碇ヶ関駅 - 大鰐温泉駅 - 弘前駅 - 青森駅

担当車掌区 [編集]
(上下)

秋田運輸区

使用車両 [編集]
牽引機関車
EF64形電気機関車
EF81形電気機関車
青森車両センター所属の車両が用いられるが、点検・配給列車への充当などにより稀に田端運転所所属のEF81が使用されることがある。
2009年3月14日ダイヤ改正より、上越線での空転が多いEF81形は長岡?青森間に短縮、上野?長岡間は上越線での走行のために設計されたとも言える長岡車両センター所属のEF64形電気機関車の牽引に変更される。

客車・編成
青森車両センターに所属する24系客車が使用される。
1980年に20系客車を置き換えた際に「あけぼの」に投入された車両は24系24形であったが、特に2002年の「はくつる」廃止以降、同列車に使用されていた3本金帯を巻いたオハネフ25形及びオハネ25形が編成に組み込まれることが多くなっている。
客車 
20系客車
電車 
583系電車(臨時)
むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

客室概要 [編集]
シングルデラックス
A寝台「シングルデラックス」(7号車)は、全11室の1人用個室である。室内にはテレビや、BGMを流す装置があり、テレビではビデオが放映されている。基本的には映画が放映されており、2つのチャンネルから選べるようになっている。
このシングルデラックスは、家族向けでの利用を考慮し、補助ベットを設け2名使用することが可能である。また、トイレ側1室を除いてベッドと反対側の仕切が開閉できるようになっており、1番個室以外は4名グループでの利用も可能である。
(2番&3番/4番&5番/6番&7番/8番&9番/10番&11番)
B寝台個室「ソロ」は、5・6号車にそれぞれ28部屋。2段構造で、寝台定員は1名。補助ベッドはない。
個室番号は、1階が1・3・5〜25・27番(奇数番)、2階が2・4・6〜26・28番(偶数番)となる。
「北斗星」・「富士」・「はやぶさ」などと異なり、通路が車両中央にあるタイプ。上段の個室へ登る階段は個室の外にあるため、下段の個室内への張り出しはほとんどないが、上・下段とも個室内で着替えなどのために直立することができる場所はない。また、上・下段とも寝台使用中は床が露出せず(折りたたみ式の座面を展開するとその下に隠れる)、特に寝台使用中は寝台以外の空間がなくなってしまう。しかし、開放式B寝台と同額で個室を利用できるので、非常に人気が高い。
開放式B寝台
開放式B寝台は、2〜4号車と9〜12号車にある。
なお、下り羽後本荘駅→青森駅間は立席特急券で、上り青森駅→羽後本荘駅間は指定席特急券で利用できる。ただし利用できる車両は上りは4号車のみであるため繁忙期には満席であることが多い。下りは羽後本荘駅→大館駅間は4号車のみ、大館駅→青森駅間は3・4号車となっている。

2009年03月05日

八咫烏(やたがらす、やたのからす)

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足の烏である。しかし、三本足と明記はされていない。

熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽神を意味する神聖の象徴と考えられ、信仰に関連するものと考えられている。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には烏が描かれている。

『新撰姓氏録』では、八咫烏はカミムスビの曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は賀茂建角身命を祭神としている。

咫(あた)は長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。

戦国時代には、紀伊国の雑賀を治めた鈴木家の旗ともなっている。

金鵄との関係
八咫烏は日本書紀や古事記に登場するが、日本書紀には、やはり神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が登場する。金鵄は、ナガスネヒコとの戦いで神武天皇を助けたとされる。

八咫烏と金鵄は、しばしば同一視ないし混同される。
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

三本足の意味
いくつか言われており、「宇井」「鈴木」「榎本」という熊野地方で勢力を誇った熊野三党を表しているという説や、 熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)の 御神徳「智」「仁」「勇」の三徳であるという説があり、 また、「天」「地」「人」を表すとも言われている。

シンボルマーク
現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられ、これは日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物である。(podcast:ギリシャ神話と日本の神話(4)/eureka!より)

このデザインが用いられているのは主として以下の通り。

協会旗
日本代表チームの紋章
Jリーグ優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン(上部にJリーグのシンボルマーク)
天皇杯優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン(上部にEの文字)
Jリーグ・天皇杯両方優勝チームを示す、ユニフォームのワッペン(上部に金の星)※現時点では2001年・2008年シーズンの鹿島アントラーズ、2007年シーズンの浦和レッドダイヤモンズのみ。
日本サッカー協会公認審判員のワッペン
サッカー関連以外では、次のようなものがある。

旧陸上幕僚監部調査部調査第2課別室のシンボルマーク
小説『星界の紋章』で、スポール氏の紋章ともなっている金色の烏ガサルス
JR紀勢本線向けの105系の車体に、沿線熊野のシンボルとしてステッカーが掲示された。
漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻 織田信長編』において、雑賀孫一の家紋として。

世界の三本足の烏
三本足の鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられている場合が多い。黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もある。

中国・高句麗
『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた……」と見える。この10匹の三本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。 また「日中有烏 而月中有蟾蜍」との記述もあり中国の三本足烏は太陽そのものの象徴であった。『芸文類聚』にも記述されている。高句麗では天孫の象徴であるとされ、古墳壁画にも三本足の烏三足烏が描かれている。

ギリシャ神話
太陽神アポロンの烏。本来白かったが、後にアポロンの怒りを買い黒くなった。からす座のからすはこの烏とされ、古い星座絵図の中には3本足で描かれている物もある。

2009年02月14日

そらのいろ、みずのいろ

海と山に挟まれた小さな地方都市・玖珠井(くすい)市。そこにある県立学園・東台校(あずまだいこう)のある教室では、主人公の最所弌が、ヒロインの水島朝と共に夏休みの補習授業を受けていた。補習の最中、弌は同じ水泳部である朝に話し掛けるが、彼女から返ってくる反応は素っ気無いものばかり。1学期に隣町から転校してきたばかりの朝には、弌はまだ異質な存在でしかなかったのである。

一方、照り付ける日差しの下で彼らの補習が終わるのを待っていた海野十三は、1人で実習畑の水やりに勤しむもう1人のヒロインの空山菜摘芽に、一目惚れしていた。

やがて菜摘芽は、実習畑で獲れた野菜を持って水泳部を訪れる。その日を境に、弌、十三、朝、菜摘芽の男女4人は、他人とは少し違う真夏の恋物語へ、足を踏み入れていくのだった…。
最所 弌(さいしょ はじめ)
声 - 無し
身長 - 178cm / 体重 - 65kg
東校[1]2年生で主人公。水泳部に所属。ガッチリ体型に反し、淡色のサラサラ髪に顔立ちは女子と見紛うばかりの端正な優男。校内では、誰に対しても軽々しく話し掛けるムードメーカーで通っている。学業成績はあまり良い方ではないが、遊び心と精力だけは一丁前。夏休みに古文の補習を受けている中、同じ水泳部の朝と出会い、興味を持つ。十三とは旧知の仲。
水島 朝(みずしま あさ)
声 - 芹園みや
身長 - 163cm / 体重 - 50kg(自称49kg) / スリーサイズ - B88(Dカップ)/W55/H86(cm)
東校2年生でヒロインの1人。水泳部の紅一点。凛とした雰囲気を漂わせる整った顔立ちに、腰まで届くストレートの黒髪、そしてグラマーな肢体を併せ持つ美少女。明朗快活なボク少女っぽさも持ってはいるが、基本的にはやや人見知り。1学期に隣町から転校してきたばかりの立場と、スクール水着の形の日焼け跡も眩しい小麦色の素肌に男子生徒の視線が集中することも重なって、クラスには今一つ解け込めず、浮いた存在となっている。部活だけでなく、補習でも一緒の時間を過ごすことになった弌の様子を、最初は冷たい目で見ているが…。
空山 菜摘芽(そらやま なつめ)
声 - みる
身長 - 149cm / 体重 - 38kg / スリーサイズ - B80(Bカップ)/W52/H78(cm)
東校2年生でヒロインの1人。花卉園芸部に所属。まだ幼さが残る顔立ちと、先端を垂らさず輪型に巻き結わえたツインテールの栗髪、そしてスレンダーな肢体を併せ持つ美少女。1年の3学期に関西から転校してきた。広大な面積の実習畑を1人で管理しており、水やりのために夏休みも登校中。肌が白いこともあって周囲からは控えめ且つ清楚なイメージで見られているが、実はセックスへの興味は人一倍持っており、黒いレース柄の勝負下着を白い制服の下に着けるなど、朝よりも積極的な所がある。弌のことが気になるようだが…。
海野 十三(うんの じゅうぞう)
身長 - 179cm / 体重 - 66kg
東校2年生。弌と同じく水泳部に所属。弌とよく似たガッチリ体型。普段は黒斑眼鏡に作務衣と雪駄の姿で、独特の口調と様々な薀蓄を披露している、ちょっと変わった人物。夏休みの部活中、菜摘芽に一目惚れする。最初は単なる脇役にしか見えないが、物語が進むに随って…。アダルトアニメ版には登場しない。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

伊部 本一郎(いんべ もといちろう)
古文・漢文の教師。定年が近い初老の男。水泳部の顧問も務めているが、部活にはあまり出てこない。教え子達からは「いんべサン」と呼ばれ、親しまれている。アダルトアニメ版には登場しない。

2009年01月27日

CF-104 15機とCF-104D 7機を追加で導入

デンマーク
デンマーク空軍は、当初25機のライセンス生産したF-104Gと、ロッキードで組み立てられた4機のTF-104Gsを受領・運用した。1972年と1974年には、カナダ空軍で余剰となったCF-104 15機とCF-104D 7機を追加で導入する。
計51機のF-104は1986年まで運用され、退役に伴って15機のF-104Gと3機のTF-104Gが1987年に台湾に引き渡された。

ドイツ
ドイツ空軍のF-104(2006年撮影)西ドイツにおいては、916機が運用された。西ドイツ空軍のほか、西ドイツ海軍航空隊でも2個航空団に配備された。これらは北海などにおける対艦攻撃任務、に用いられ、コルモラン対艦ミサイルを装備していた。また低空侵攻用の戦闘爆撃機としても用いられ、近接支援任務のほか核攻撃任務が付与され、アメリカ軍管理の核爆弾250発と作戦機が分散配置された。
上述の通り、搭載量が小さく戦闘爆撃機としては不適とされる事も多いが、高翼面荷重によるガスト(突風)への耐性の強さによる低空での安定性、海面高度でマッハ1.15の高速、機体規模の小ささからくる低被発見率など、その長所を生かしての運用がなされた。
しかしながら一方で、天候の良いアメリカでの訓練を受けて帰国したパイロットが、欧州の悪天候に不慣れなまま起こす事故が相次いだこともあって、パイロットの死亡例が多い機種であった。そのため、「空飛ぶ棺桶」「縁起の悪いジェット機」「未亡人作成(製造)機(ウィドーメーカー)」などと呼ばれていた。西ドイツ空軍においては、916機中292機が失われた。後にヨーロッパ化と呼ばれる訓練プログラムを追加している。
F-4Eなどの新型機の配備が進むにつれて数を減らし、テスト機として残っていた機体も1991年5月22日に退役した。

ギリシャ
ギリシャ空軍第335飛行隊のF-104Gギリシャ空軍は、45機のF-104Gと6機のTF-104を導入した。これらに加え、ドイツ空軍から79機、オランダ空軍から7機、スペイン空軍9機を受領している[5]。

イタリア
イタリア空軍向けの F-104S は、FCSの交換とハードポイントの追加により AIM-7E スパローの運用能力を持ち、またエンジンの換装により最高速度はマッハ2.4に向上している。これは耐熱限界が向上したためで、パワー自体はもとより余裕があった。
1981年に計画された近代化改修によりAIM-9Lが、1997年の近代化改修でAMRAAM同様アクティブ誘導が可能なAIM-7Eベースのイタリア国産ミサイル、Aspide mkIIがそれぞれ運用可能となっている。F-104Sは、ユーロファイター タイフーンが導入される2005年まで運用されていた。

日本
第2航空団第203飛行隊所属のF-104J(1982年)
グアム行われた日米共同訓練「コープノース83-1」に参加するF-104J(1983年)航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。航空自衛隊では栄光という愛称を持つほか、日本のファンの間では「マルヨン」の愛称で親しまれる。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある[要出典]。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。
導入経緯
T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、アメリカ空軍での採用以降、空軍からデータが公表されると共に、防衛庁に対して売り込み始めた。アメリカにおける多量採用の目が無くなったものの、F-86の後継としてF-100の採用を狙うノースアメリカン社との販売競争が行われていた。
防衛庁は1957年(昭和32年)に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。
増強が進むソビエト空軍の爆撃機を意識し、以下の要求を満たす戦闘機の選定を行った。日本としては初めての機体選定作業となった。
マッハ2クラスの速度
高度15,500mまで約8分以内に到達
最大上昇限度が18,000m
戦闘行動範囲約380km
以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機種にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた。
調査団は1957年9月13日に帰国し報告書を提出したが、結論は明記されておらず、結論は先送りとなった。この為、国産化したF-100Jを「つなぎ」として導入するとの意見も上がった。
1958年1月に佐藤空幕長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11[6]の採用を決定、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。
だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装し型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。
これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。
生産
J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライングタイガーライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされた。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。
DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされた。1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編された。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備された。
機体
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

茨城県の百里基地で展示されているF-104J
F-104Jに搭載されていたJ79エンジン
かかみがはら航空宇宙科学博物館展示F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じである。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限された。
武装はM61 バルカン 20mm ガトリング砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in FFARロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、当時のサイドワインダーでは全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まった。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していた。
単発エンジンで故障も多く、1969年2月8日に金沢市で落雷を受け民家に墜落し、住民4名が死亡し民家17戸が全焼するという墜落事故を契機に、自衛隊戦闘機の選考にも影響を及ぼした。22年間での大事故は24件とされている。
最後の有人戦闘機
登場時はミサイル万能論の影響もあり、将来的には航空自衛隊の戦闘機は全て地対空ミサイルに置き換えられると予想されていた。そのためか、日本では最後の有人戦闘機とも呼ばれた。ちなみに地対空ミサイルは1970年の地対空誘導弾ナイキJの導入によって実現したが、同時期にF-4戦闘機も導入しており、ミサイルによって全ての有人戦闘機が置き換えられる事態には至っていない。
ちなみに最後の有人戦闘機の呼び名はultimate manned fighterを訳したものだと言われているが、正しい和訳は究極の有人戦闘機である。日本ではかなり有名な表現だが、英語圏ではこのような表現はほとんどされていないらしく、少なくとも、英語版wikipediaのF-104にはそのような表現はない[7]。
これはロッキード社の副社長が来日したおりの記者会見で「これ以上のものは有人では無理である」との発言を捉えたものだと云われる。誰しもにそう思わせるようなラジカルな姿態の戦闘機だった[8]。
退役
F-4EJ、さらにはF-15Jの配備が進むと減数となり、1986年(昭和61年)に207飛行隊の解隊をもって実戦部隊から退役した。このとき多くの機体が用途廃止となり、書類上のみでアメリカに援助相当分を返却したことにして直接廃棄したものもあるが、36機(F-104J:30機、F-104DJ:6機)は実際にアメリカに返却された後に中華民国空軍(台湾)に再供与された。また、アメリカに返還された機体の他に39機が飛行可能な状態だったため、航空実験団に残す4機を除いて35機がモスボール化された。
1986年から無人化研究の予算が付き、その中から2機を試作機である有人飛行可能なUF-104Jとして試改修を行い、1992年より臨時無人機運用隊にて試験運用が開始された。1994年に正式に発足した無人機運用隊は、試作機2機、量産型の完全無人標的機UF-104JAを12機の計14機を無人標的機UF-104J/JAに改修して使用した。航空自衛隊最後の「マルヨン」でもあったUF-104J(46-3600)は1997年(平成9年)3月11日に標的として撃墜され、これをもって航空自衛隊から全機姿を消した。
評価

北海道秩父別町で展示されているF-104J上記の通り、F-104は元来は軽量戦闘機であり「触らせてももらえなかった」と訪米調査団が残したアメリカ防空軍団(ADC)の全天候要撃機F-106デルタダートのような充実した電子兵装や重武装、大航続距離を求める事は出来ない。しかしF-106が戦闘機単体での能力ではなくSAGE(半自動防空システム)とのデータリンクで成り立つ兵器である以上、それも含めて導入しないと意味は無い。SAGEは当時の最新鋭のコンピュータシステムであり、当然ながらアメリカが輸出を許す訳がなく、仮に許したとしても当時の日本の経済力では購入は不可能だった。
日本における防空システムであるBADGE(自動防空警戒管制組織)が運用を開始したのは1969年(昭和44年)であり、これと組み合わせる戦闘機は1969年(昭和44年)の国防会議で採用が決定されたF-4である。航空自衛隊がF-104を採用したのは、当時としてはベストの選択だったと言える。その上昇能力は要撃機として一流のものであった。またバルカン砲の装備方法の違いからF-4EJと比較して弾道が非常に安定していた(機体に抱え込むような装備方法のF-104に対して、F-4E/EJは機首を延長して弾倉を搭載し、機銃そのものは機首にぶら下がる形になるため「落ち着きが無い」と評される事もあった)。そのため、F-4戦闘機よりも優れているとして、絶賛したパイロットもいた。また、格闘戦においては旋回半径が2キロと大きい事から不利と言われていたが、実際には機体が小さいため、低視認性や旋回時間が短い事などを生かして、独自の戦法(フラップモードを固定するなど)を編み出している。これは、当時、航空自衛隊の各マルヨン部隊が精力的に研究を重ねた成果で、ACM(対戦闘機戦闘)に不向きとされたマルヨンでそれを可能にしたのである。その結果、岩崎貴弘は204飛行隊時代、日米共同訓練において、米空軍のF-15を「撃墜」している。アメリカ空軍は本来の目的である制空戦闘機としてF-104を使用しなかったが、航空自衛隊がそれに成功した事になり、ある意味ケリー・ジョンソンの設計の正しさを立証したと言える。
F-104採用後、小笠原諸島と沖縄がアメリカから返還されると、日本は広大な領海を抱える事となり、航続距離の不足が問題になりつづけた。アメリカ空軍ではF-101戦闘機も要撃機として採用しており、広大な北極海のパトロールのため長い航続距離を要するアラスカの部隊で使用された。こちらはカナダにも輸出されている。その事を考えるに、全くの後知恵ではあるが、むしろ選考の際候補にすらあがらなかったF-101の方が自衛隊で使うには相応しかったとする意見もある。ただしF-101はF-104に輪をかけて運動性能が悪く、360度ロールすら出来ず、なおかつ大型・重量級の機体であり、部隊がいくら研究を重ねても、F-104のように格闘戦を行う事を可能にはできなかったであろう。
配備部隊
第2航空団 - 第201飛行隊(F-15に改変)・第203飛行隊(F-15に改変)
第5航空団 - 第202飛行隊(F-15に改変後解隊)・第204飛行隊(F-15に改変と同時に第7航空団傘下へ移動)
第6航空団 - 第205飛行隊(解隊)
第7航空団 - 第206飛行隊(解隊)・第207飛行隊(後に第83航空隊傘下へ移動、解隊)
実験航空隊(航空実験団を経て現在の飛行開発実験団)
無人機運用隊

ヨルダン
1967年に29機のF-104Aと4機のF-104Bをアメリカから供与された。
アメリカからの供与時に「対イスラエル作戦には使用しない」という条件が付されたため、中東戦争ではイスラエルの攻撃を避けるためトルコに避難した。第2・3次印パ戦争においては飛行隊の一部がパキスタンに派遣され、戦後、アメリカの禁輸措置後には保有機の一部が部品取り用に同国に転売されたという。
1983年までにF-5とミラージュF1との置き換えに伴って全機が退役。

オランダ

展示されるオランダ空軍のF-104オランダ王室空軍は、138機のF-104を導入した。退役後、余剰となった機体の多くはトルコへ引き渡された[9]。

ノルウェー
1963年に19機のF-104Gと4機のTF-104Gを導入。1974年にはカナダ空軍から余剰となったCF-104 18機と、CF-104D 4機を導入・運用した。1982年に退役。

パキスタン
パキスタンは複座型を含む12機を供与されている。第2・3次印パ戦争にF-86、ミラージュIIIと共に実戦投入された。第3次印パ戦争では7機を失う大損害を被り、終戦後アメリカの禁輸措置によって部品供給を絶たれて退役した。

スペイン
スペイン空軍では21機のF-104を導入した。
1972年にF-4の導入により、余剰となった機体はギリシャ空軍とトルコ空軍に引き渡された。
なお、スペイン空軍では17,000時間以上運用されたものの、事故等で失われる事はなかった。[12]

トルコ
トルコ空軍は、ロッキード社で新造された48機のF-104Gと6機のTF-104Gを受領した[10]。後に各国で余剰となったF-104を導入し、1970年代から1980年代にかけて総計400機以上を保有するに至った。しかし、引き渡された機体のほとんどがスペア部品取りの為に解体された。1995年に全機が退役[11]。