1938年にドイツによって併合
1938年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によりオーストリア全土が分割占領された。
これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の4か国により分割占領された。
ただし、ドイツとは異なり、ナチスによる併合により消滅していた中央政府が復活し、第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955年のオーストリア国家条約により主権を回復した。[31]
ドイツへの併合に協力し、その後オーストリア・ナチス党の指導者になった。[32]アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれ死刑になった。
冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて第2次大戦以前にドイツに併合され、(選挙でそれを望んだのはオーストリア国民だが)多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担したことに対する戦争責任について問い直す動きが見られた。
1942年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の勢力下に置かれようとしていた。その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974年にキプロスでのクーデターが失敗し、その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には北大西洋条約機構に加盟した。
領土の喪失
第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由市となった。
その後、1954年にトリエステ自由市の半分以上を占めるイストリア半島をユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア ――この時にリエカ(フィウメ)を獲得――)に割譲し、トリエステ市を含む北西部がイタリアに復帰した。
エーゲ海東部のドデカネーズ諸島をギリシアに割譲した。
参戦前の1939年に宣言したアルバニア併合が無効とされ、アルバニアの独立が完全に回復された。
戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ[33]、ソマリランド[34]等のアフリカ植民地を放棄し、これらの地域はイギリスの委任統治領になった。
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共和制移行
コミンテルンの活動と、ファシズム独裁への揺り返しから共産主義的な雰囲気が支配していた1946年に行われた共和制移行を問う国民選挙によって、その政権奪取よりファシスト党とそれを率いるムッソリーニに対し友好的な態度を取り続けていたウンベルト2世は廃位され、国外追放となり、サヴォイア家のイタリア王国は終焉を迎え共和制に移行した。
なお、新たに制定された憲法で、元国王であるウンベルト2世およびその直系男子のイタリア再入国を禁止する条項が制定された。この条項が破棄され、「元王族」となったサヴォイア家のメンバーがイタリアに再び入国できるようになるまでには50年以上の年月がかかった。
大戦中にソビエト連邦からの侵略(冬戦争)に対抗するため、ナチス・ドイツの協力を仰いだ事で敗戦国扱いを受け、侵略者ソ連から戦争犯罪に問われる事になった。しかし、ドイツの支援はフィンランドにとってはやむを得ない選択であった。何の落ち度も無かったにも関わらず、1939年から1940年にかけてのソ連の不当な攻撃が”敵の敵は味方”と言う感情にフィンランドを貶めたといえる。不運だったのは1941年6月からの継続戦争において、フィンランドに味方する近隣諸国はいなかった事。スウェーデンを除き北欧はナチスの旗の下にあった。スウェーデンは中立を守りきったがフィンランドにはそれが不可能であった。それでもフィンランドは自己の生存権のため、ドイツのレニングラード包囲戦には深く加わらず、ドイツの敗戦時には、連合国に寝返り、国内からナチスの勢力を追い払った。ソ連は勝利国として、フィンランドに対し、制裁と戦争法廷による戦争犯罪の追求を行ったが、フィンランド人にとっては、不当な制裁であり、ソ連と戦ったマンネルヘイム将軍らは国家の英雄とたたえられている。しかしソ連は戦後も勝利国としてフィンランドへの干渉を強めて行く事となる。